※編集部より
2022年1月25日から30日まで開催される坪井直さん追悼展に出展してもらうChim↑Pom(アーティスト集団)の卯城竜太氏から追悼展に寄せたコラムをいただきましたので掲載します。


自分はメモや写真を取るわけでなく、その場で次々と辛辣な質問に答えていただけだから、謝罪会見での思い出はハッキリ言ってあまりない。特に一つだけ思い出を挙げるとすると、それはやはり坪井さんの印象に尽きる。顔が見えない中では発言も何も温度というものが伝えられないが、まずは被爆者団体の方々に自分の顔を見てとってもらえた。その後に各団体と独自に対話を進めていくきっかけともなったのであるが、それを決意させたのはまさに坪井さんのジェスチャーだった。被爆者団体として求められる説教をした後、席を立つ前に、彼は僕に「まあ、諦めんでがんばりなさい」と微笑みかけてくれたのである。

驚いたが、表情全てが放映されているかもしれない僕にしてみたら、なんと返せば良いか。リアクションに詰まったことを覚えている。が、僕にとってはChim↑Pomがその後の逆境を突破していった全てのはじまりは、その一言に結実するのだ。団体の方々が僕らや作品について何も知り得ていなかったのは火を見るより明らかだった。市として体裁を整えるために、彼らはその場にきて役割を全うしたのだろう。が、坪井さんの一言は僕に人間としての温度を伝える導きがあった。それは、会見直後に彼の自宅を調べ、「先ほど謝ったものですが…」と私的に電話をかけてみたところから道となった。「ああ、ああ、どうもどうも」と穏和にのんびりとした口調で対応してくれたことに気が抜けた僕が、「なんだかさっきはすみません」と照れながら話し始める。すると、「どこに泊まってるの?」などと意外にも雑談が始まったのである。その延長で会いたい旨を伝えると、電話越しにスケジュール帳をめくり、日時をすり合わせてくれた。「まあ3日後に会おうよ」と約束してくれたことが、道を進むべき光明となった。

彼とはその後に何度か会った。祖父のように、友人のように、その優しさのうちに僕らと接した「被爆者」である。老人、とか男とかいう一般的な身元や肩書きよりも、「被爆者」だということにこだわり続けて来たアクティビストの巨星であった。

坪井さんは国連やオバマ大統領の広島訪問などの際に、被爆者を代表して先頭に立ってきた「カリスマ被爆者」である。20歳の時に爆心地から1,2kmの地点で直接被爆。40日もの間意識不明の重体で生死を彷徨った時のことを振り返り、「なぜピカッ」で「あのとき生きとったのが不思議じゃのうと、あとで思うわけ。誰かが食べさせてくれたんじゃろうが、それが誰かはわからん」と振り返っている。座談会では何度も「モンゴルの馬賊の大将」になりたかったと冗談まじりで語っているが、いかに豪快な人だったか、80を過ぎて出会った僕らにも伝わるエネルギーがあった。戦後は、造血機能が破壊されたことでの重い貧血や、度重なる癌に苦しんでいた。被爆者であることから結婚にも反対され、二人で心中を図って睡眠薬を服用したこともあったという。元職は学校の先生で、生徒たちからは「ピカドン先生」と呼ばれていた。人によっては不謹慎となるだろうその響きに「むしろ快ささえ感じていた。」と言い、それどころか「俺は世界で初めての原爆受けたんぞ」とまるで人類で初めてエヴェレストを登頂したかのような言い方でそれを誇示していたから凄い。

「有史以来の出来事に出くわしたいうんでね。そういう喜び方しよった。ちょっとおもしろいじゃろ。」

坪井さんには、原宿で開催した一発目の「広島!」展で、被爆体験談を語るレクチャーパフォーマンスをお願いした。僕の介助を振り解き、年老いてもスタンダップで語るそのトークスタイルには、観客に一人の人間として向き合うという肉体的なガチさがあった。そのQ&Aで、「Chim↑Pom」の「ピカッ」を知った時どう思ったかと尋ねられて、会場に若干の緊張感が走った。空気を察した坪井さんは、アドリブ的に横にいた僕を笑って小突き、「この阿呆がな」と笑いをとってくれたのだった。

エッセイや講演では必ず自身のモットーである「ネバーギブアップ」を使った。それは自身の病気や、広島の復興、核兵器廃絶への強靭な「態度」である。東日本大震災が勃発し、Chim↑Pomが最初に制作した作品こそは、坪井さんが送ってくれたFAX「不撓不屈(Never Give Up)」のカリグラフィーを、津波でボロボロになって廃棄されていた額に額装したものである。当時、津波の巨大さや被害の甚大さ、原発事故など手に負えない状況下に、食うことも施すことも寒さを凌ぐことも出来ない、さらにその現実のスペクタクルが完全にフィクションベースだったアーティストの想像力を超越してしまっていたこともあり、「アートは無力」だと絶望されていた。本当にほぼ全員がフリーズし、業界自体の活動が止まってしまったのである。もちろん、Chim↑Pomもそんなことはわかっていた。が、それでもどう一歩を踏み出すかということも考えていた。《不撓不屈(Never Give Up)》は、まさにChim↑Pomが福島に入っていく最初のドアとなり、東日本大震災で最初期のリアクションが僕らだったことを考えると、これはつまり日本のアートを再生させる重要な一里塚であったと言える。同じように坪井さんとの出会いこそは、僕らが広島で状況を突破していく鍵だったのだ。

この原稿を書いているのは11月の下旬であるが、ちょうど1ヶ月前に、彼の訃報が日本全国を駆け回った。その半月前に広島を訪れた僕は、彼が理事長であった被団協に挨拶に伺った際に、身体を押した抗議活動を機にまた闘病生活に入り、輸血で命を繋いでいるとの容態を聞いた。あのスタンダップ・スタイルを思い出すと、無理をしたことは容易に想像がつく。だから覚悟はしていたのだが、やはり、言葉を失った。とある島の港で林からのLINEで知ったのだが、その瞬間、目の前の海が冷たく残酷に広がったように感じた。船に乗り込んでからもずっと、彼の冗談をいう軽快な話し声と笑顔が頭をよぎり、その初対面であった謝罪会見の場が懐かしく思い出された。

あの時の一言をなぜあの場でかけられたのか。氏の性格を想像すると、目の前でカメラに囲まれながらカバチをタレてる「阿呆」に少し同情でもされたのか、何にせよ、先生として若者には無条件に優しかった彼にとって、それはきっと、気にも止めずに口をついた言葉だった。が、僕にとっては一生の出来事として胸に刻まれている。船上でもその一瞬は何度も思いだされ、ケロイドが残る太陽のような丸い笑顔に、何度も何度も語りかけた。これまで色々な話を聞き、僕もしたように思うが、しかし胸に思い浮かぶ言葉は、やはり「ありがとうございました」の一言に尽きていた。彼がいなかったらどうなっていたろうか。「ありがとうございました」。何度言っても、どのように言っても、全く足りないその一言を、僕は隣の席に気づかれないように黙って心に復唱し続けた。

卯城竜太(Chim↑Pom) ※現在執筆中の書籍原稿より