本通りから見た広島、ヒロシマ 被爆証言者 奥本博

Interview &Text:大小田伸二 a.k.a. GUY

7月某日、本通りの老舗古美術店「桃源」(注1)の店主「進さん(古吉 進)」から本通りの歴史に詳しい奥本博さんを紹介していただき、インタビ ューを行わせていただきました。今年でTO FUTUREジンを初めて18年、本通りの隣町、袋町で商売を始めてから30年を迎えたのですが、その割に本通りの歴史について殆ど知らないことに気づいた私は店から歩いて五分ほどの場所に戦前から住まれている奥本さんに8月6日の被爆体験を含めたいろいろなことを聞かせていただく為に本通りのご自宅にお邪魔させていただきました。

GUY(以下G):本日はよろしくお願いいたします。戦前からこの本通りに住まれておられる奥本さんに1945年の8月6日に経験されたことを中心にその前後の本通りの事をお聞きしたいです。
奥本さん(以下敬称略):この本通りはかつては西国街道(写真参照)と呼ばれ、下関から京都までを結ぶ街道だったんです。

奥本博さんの名刺裏 西国街道のロゴと共に、戦時中の住所が書かれています。

広島藩の大名をはじめ、西国の多くの殿様が江戸への参勤交代の為、この街道を通ったと聞いております。当時、和歌山の浅野の殿様(当時の紀州藩より、豊臣政権下で五奉行を務めた浅野長政の次男、浅野長晟のこと。広島に1619年入封)が広島に来られた時に、私たちの先祖が商人としてついてきたんですよ。その後、明治24年、今の場所(本通り)へ金物店(奥本金物店。屋号はカネハチ)を開業して以来、ここにおります。戦前戦中はこの辺りは播磨屋町と呼ばれておりました。その東側が平田屋町、西側が革屋町といい、現在の本通り電停はかつて革屋町電停と呼ばれておりました。(昭和20年被爆直前に発行された本通りの手書きの地図を見せてもらいながら説明していただきました。写真参照)

被爆直前に作られた播磨屋町手書き地図


当時の帝国銀行広島支店(現アンデルセン)(注2)の閉店時間(午後3時)を過ぎたら色んな方が建物前の敷地内に勝手に場所をとって路上で商売をしておられましたね。さらにスペースがあったので、私たちにとっても格好の遊び場となり、ラムネッチン(ラムネ玉ころがし、いわゆるビー玉遊び)をやったり、パッチン(メンコ)をやったりして、いつも遊んでおりました。当時の本通り(昭和10年~12年頃)は午後11時まで商売をする人がいたので夕食後も走り回って遅くまで遊んでいたのを覚えています。
息子たちに当時の話をすると「いつ勉強してたんね?」とよく言われます(笑)


G:子供は遊ぶのが仕事ですからね(笑)
それにしても、銀行の敷地内で営業時間外とはいえ商売や遊び場として使われるなんて大戦の狭間の時期でもありますが、おおらかな時代だったのですね。

戦時中のマルタカ子供百貨店
マルタカ(店貨百供子)の奥に見える黒い立て看板に、奥本さんの生家「奥本金物店」の文字が確認できる。
前方に見える増産音頭レコードのすぐ右隣に「敵機爆音レコード」と書かれている看板が見える。
このレコードには艦載機グラマン、B25, 26, 29などの米国戦闘機の爆音が録音されている。
当時はレコード屋の「推し」にもなっていたのが驚きだ。
写真提供 : 益田崇教氏
カラー化 : 庭田杏珠氏

奥本:そういうことです。本当に当時はよく遊びました。マルタカ(注3)(現在のタイトーステーション)の二階に木馬や映写機、猿の檻、パチンコ(現在のパチンコの原型)などがあり、子どもたちに人気の遊び場になってたんですよ。ニュース館(注4)で戦場などのニュース映画も見てましたね。のらくろや冒険ダン吉などの漫画を読むのも楽しかったです。福屋(広島の老舗百貨店 注5)は現在の位置の北側(電車通りをはさんで)にありました(昭和4年10月1日開業)。現在の位置になったのは昭和13年からです。建設工事中は基礎の柱を大きな機械でドーン、ドーンと打ち込むわけですよ。もの凄い大きな騒音と振動でしたが、当時は工事に騒音はつきものでしたから誰も文句なんか言わなかったです。それほどの大きな基礎が元となって建てられたコンクリートの建造物だからあの原爆にも耐えられたんでしょう。
原爆前には中区胡町電停前(現在の三越百貨店)の場所に中国新聞本社もありましたが、あちらは全壊はしなかったもののかなりの被害を受けたために、現在の場所(広島市中区土橋町)に移転しましたからね。修復して現在もそのまま営業を続けているのは福屋だけですよ。
当時、福屋のその大きさが逆に米空軍から格好の爆撃目標にされるということで戦争が激しくなってからは迷彩色に外壁を塗られておりましたね。被爆建物でいえば、日本銀行(現在の旧日銀、中区中町)も残りましたね。日銀は営業時間が始まる前で、1階と2階はまだシャッターが降りていて焼けなかったんです。シャッターの無い3階におられた方は亡くなられたのですが、もし営業時間にかかっていたらもっと被害は大きかったと思います。あとは少し離れますが皆実町にある被服廠も被爆建物として知られていますね。


G:ありがとうございます。それでは、第二次世界大戦がはじまった頃のことを聞かせてください。
奥本:昭和12年に袋町小学校(広島市中区)に入学しまして、その年に7月に支那事変(日中戦争)が始まりました。私らは敵が攻め込んでくるんじゃないかと戦々恐々でしたよ。当時出来たばかりの王泊ダム(注6)を破壊されたら広島は大洪水で壊滅すると大人からよく聞かされていましたね。牛田の水源地(現在の牛田浄水場)に、スパイが毒を入れたら大変じゃという噂もありました。
そして、昭和16年に大東亜戦争(第二次世界大戦)が始まり、その二年後の昭和18年、私は憧れていた修道中学校(中区南千田町)に入学しました。その年(1年生)は授業を普通に受けておったのですが、19年(2年生)の秋には学徒勤労動員令が発令されて状況は一変しました。週6日、広島陸軍兵器補給廠(現在の南区霞一丁目の広島大学病院、以下兵器廠)に勤労動員され、残り1日が授業になったんです。つまり一日も休めないわけです。おまけに当時の市内の学生は電車、バスに乗ることが禁止されていましたから、自宅から兵器廠まで約3キロ(あくまで直線上)の道のりを毎日通っていました。今のように比治山トンネルなどないですから比治山北側から当時の段原のせまい商店街の道を通って兵器廠に行っておりました。

G:休みなしで毎日ですか?!
奥本:そうです。確かに大変でしたが、当時はみなそうですからそれが当たり前だと思っていました。B25, 26, 29による大都市爆撃が激しくなったころ、広島でも学校防衛の為の出動が始まりまして、警戒警報が鳴れば夜だろうが朝だろうが学校防衛の為、駆り出されていました。タコツボ式と呼ばれた4、5人用の防空壕の中に入り、空襲に備えるんです。警報が終われば自宅に帰れるんですが、それが月に2,3回はありましたね。

G:当時は、学校防衛まで生徒が担っていたんですね!
奥本:先ほども言いましたが当時は当たり前ですからね。それが学生の務めだとみんな思っていた時代でした。学校防衛で招集されたある日の事です。夜、学校に駆け付けますと兵隊が銃剣を持って校門に立っておるんです。当時は軍の宿舎だけでは足らないので学校が軍人(宇品港から海外へ出征する兵士たち)の宿舎としてその一部を担っていたんですね。兵隊が私に向かって「誰か?!」と叫ぶわけです。授業の軍事教練で兵隊から三回呼ばれても返事がなかったら銃剣で刺されると聞いていたものですから、すかさず「学生であります」と申したところ、「よし!通れ!」と言われてほっとした思い出があります。「よし通れ」て言われても、私が通ってる学校なんですがねぇ(笑)。

G:確かに(笑)ところで、勤労動員ではどのような仕事をされていたのでしょうか?
奥本:霞町の兵器廠からの出先の仕事で、海田兵器廠(現在の安芸郡海田町自衛隊駐屯地)に通っていました。沖合に停泊した大きな輸送船に、岸壁から木造船を使って輸送船に運び込む作業をしていました。重油の入ったドラム缶を運んだり、高射砲に使用する砲弾が二つ入った木箱を担いで運んでいました。まぁ、重かったですよ。重いだけでなく、信管は抜いてあるとはいえ、砲弾ですからね。みんな落とさないように慎重に運んでいました。
昭和20年の3月まではその作業をしておりましたが、そのうち戦況が悪くなってきたんでしょうね、その仕事はなくなってきたんです。代わりに塩田で塩をつくっておりましたね。
あるとき、昼の食事(兵器支廠が支給)を済ました少し後、呉工廠の爆撃を終えた米軍の艦載機が残った爆弾を落としていったんです。まぁ。ビックリしました。食堂から100メートルは離れてお ったんで命こそ助かりましたが、砂地に、直径30メートルのすり鉢状の爆撃跡がついていて、ゾっとしたことがあります。
そうして20年8月1日から、仁保町渕崎の兵器廠材木集積場(マツダ本社工場から猿猴川を跨いだ対面にある現在のマツダE&T本社辺り、爆心地より約4.1キロメートル)に働きに行っていました。砲弾など兵器を梱包するための材木の入荷出荷の整理作業をしておりました。廃材が山ほどありましたのでそれを使って、皆で休憩するための簡単な小屋を作りました。

①奥本さんのご自宅(現広島市中区本通)
②修道中学 (インタビューでは聞きそびれましたが、奥本さんは、8月6日早朝0:25、空襲警報が鳴り、学校防衛のため、修道中学に
行き、2:15に警報が解除された後、自宅に戻ってから霞町の兵器廠へ向かいました。
③広島陸軍兵器補給廠(現広島大学病院)
④仁保町渕崎材木工場 (マツダE&T本社辺り)
⑤尾長町の親戚宅 (現広島市東区尾長東)
⑥三滝方面へ

G:8月6日のことを聞かせていただけますか。
奥本:あの日は、いつものように、仁保町渕崎の材木集積場に徒歩で向い、休憩所の小屋で一息つき、作業にとりかかろうとした瞬間、強烈な光を感じました。暫くして轟音と爆風を受けました。咄嗟に目と耳を押さえ、地面に伏せました。軍事教練でそう習っていたからです。暫くして辺りを見渡すと霞町の兵器廠方面に異変が見えました。当初は兵器廠本庁の弾薬庫が爆発したのでは?と思いましたが、やがて比治山の西側(市内中心部)から、黒く大きな黒煙(原爆のきのこ雲)が立ち上がってきのたが見えたのです。その雲は見上げるほど高くなり、こちらまで来るのではないかと思えるほどでした。とにかくこれはただ事ではない、大変なことが起きたんだ。と思いましたが、それが原爆とは当時はわからないものですから、まだ気持ちに余裕があったのだと思います。上司から帰宅許可が出ましたので、仁保町渕崎から、市内中心部へ向かいました。周りのお宅を見ると、どこもガラス戸が全部壊れておったので「後片付けを手伝ってあげようや」という事になり、友人たちと数件のお宅で、ガラスの片づけを終え、ブドウ畑や田んぼが両側に広がる石ころ道(今の国道二号線)を歩いて市内中心部へ向かったのです。すると市内中心部から大火傷を受けた人たちがやってきました。皆さんが話に聞かれたことのある通り、手から垂れ下がった皮膚、スト ッキングを脱いだように剥がれた両足の被爆者たちをこの目で見たのです。私たちは爆風を受けたものの、無傷であったため「元気なのは私達だけじゃのう」と友人と話しながら比治山線にたどり着くと、市街地中心部が見渡す限り大火災で、とても自宅には帰れないと判断した私は大正橋(猿猴川)(注7)を渡り、愛宕の踏切を抜けて(現在の東区)尾長町の親戚の家(母親の姉夫婦)まで向かったんです。燃え盛る街をなんとか歩いて親戚の家に向かいました。

被爆一か月後の相生橋
本インタビューでも出てくる相生橋の一か月後の写真(20年9月、広島を襲った枕崎台風のすぐ後)
岸に大量の倒木が流れ着いています。倒木と一緒に太田川で亡くなられた被爆者の方々も大量に流れ着いたそうです。
その遺体の引き上げは当時の受刑者(現吉島刑務所)が行ったと奥本さんから聞きました。

尾長辺りは火災は中心地より火災こそ酷くはなかったものの建物は爆風で東側に傾き、建具をぎりぎりで開け閉め出来る状態でした。なんとか叔母夫婦の家にたどり着いた私達は(その時点で私は友人と二人になっておりました)、自宅の庭先にある防空壕に友人と二人で、まんじりともしないままひと晩を過ごしました。翌朝、西から迫っていた火災は消し止められており、友人と別れた私は本通りの自宅へ向かいました。自宅を目指して二葉山の山裾を歩いていたところ、東照宮、鶴羽根神社、饒津神社(にぎつじんじゃ)の道筋に沢山亡くなられた人が並べられているのを見ました。駅北一帯に当時、東練兵場があり、この道を通る前に市内から避難された方々を見ていたのですが、横目で見ただけなのでその状況までは把握していなかったのです。道筋では収容作業を手伝う方や救護の方々が、まだ話の出来る怪我人に名札の代わりに荷札を使って住所氏名を書いており、今思えば、亡くなった後でも身元がわかるようにしておられたのだと思います。
私は常盤橋(ときわばし)(注8)を渡り、白島電停から泉邸(現在の縮景園 注10)を通り、西練兵場(現在の基町官庁街の一帯)を横切って自宅跡に着くことが出来ました。午前九時頃だったと思いますが、当時学生は時計を持つことを禁じられていたので、あくまで九時頃としかわかりません。炎は収まっておりましたが、自宅の焼け跡に入ろうとしたところ、壁土と灰で覆われた地面はまだ残り火の海でしたので入る事すらできませんでした。自宅と隣家の間にあった鉄柱が今の赤松薬局(注9)方向に倒れていたので、せめて家族にわかるよう持っていた手帳を一枚破り、「博、健在」と記した紙を倒れた鉄柱の上に乗せ、その上に石を置いて自宅を後にしました。家族が無事に避難してくれていることを祈りながら、祖母方の親族の家を目指すことにしたのです。自宅跡から革屋町電停(今の本通り)に出て、紙屋町の電停に向かいましたが、その間、亡くなった方は見ませんでした。おそらく軍がいち早く収容したのでしょう。しかし、紙屋町の電停からその先の相生橋にかけての場所は、丸裸で真っ黒に火傷をした、パンパンに体の腫れて男女の区別すらつかない死体が大勢連なっておるのを見ました。みんなどういうわけか仰向けに倒れて死んでおりました。その死体を避けながら相生橋を渡り、寺町の土手筋から横川を通り、三滝(現在の西区三滝町)に向かいました。三滝には祖母(カヨさん 当時70才)がおり、その年(昭和20年)のはじめから避難していたのです。年寄りは足手まといになるということで自宅で夕食をとったあとは三滝で借りた一部屋で寝泊まりをしていたのです。三滝の親せき宅に着くと祖母がおりました。祖母はいつものように本通りの自宅に帰ろうと横川駅の電停から市内電車に乗り、発車寸前に被爆したと聞きましたが、もし、一本早い便に乗っていたら死んでおったかもしれません。
私達二人は家族を探すため、播磨屋町内会で万が一の場合の避難場所として指定されていた可部町内(現安佐北区)の入江呉服店に電車で向かうことにしました。(原爆投下から二日後の8月8日、現JR、当時の国鉄は運行を再開しました。)呉服屋についたのですが誰もおられませんでした。私の家族もおらず、播磨屋町のひとたちもひとりもいなかったので三滝の親族の家に戻りました。記憶が曖昧なのですが、翌々日の8月10日だったと思います。可部町内で母親(寿子さん 当時38才)とばったり出会うことが出来ました。幸い、母親はかすり傷程度でした。当時、自宅兼店の奥にあった土蔵におり、助かったそうです。崩れた土蔵から何とか抜け出した母親は泉邸に避難し、その後、京橋川を小船(軍の上陸用舟艇)で渡してもらい駅北の東練兵場で夜を明かしたようです。何故、私と友人の泊まった母親の姉夫婦の家に来なかったのかと思いましたが、最近、従兄弟と当時の事を話し合う機会があり、目前の尾長小学校も燃えていたのであきらめたんだろうと推測しています。泉亭から常盤橋を通らず、京橋川を船で渡してもらったのも不思議でしたが、これもその理由を十数年前に友人から父親の体験を通して聞くことが出来ました。当日は常盤橋のアスファルトが熱戦で溶けて、とても歩いて渡れる状態ではなかったそうです。再会の数日後、母親は原爆の影響で食物を受け付けなくなり、下痢を繰り返すようになって、14日に亡くなりました。その日の朝3時ごろ、足をさす ってくれと言われたので、さすり続けました。暫くして「もうええよ」の言葉が最後となりました。

G:やっと出会えたお母さんとの死別はとても悲しかったと思います。
お父さんは当日お店に出られていたと思いますが、助かられていたのでしょうか?
奥本:父親の八重蔵は店で被爆したようですが、大きな怪我も負わず、崩れた店内から何とか抜け出して、宇品港から似島の近くの金輪島(戦時中、旧日本陸軍の造船島だったこの島は、地図や写真から消されていました。)に収容されたそうです。これは市内の焼けた壁面など、方々(ほうぼう)の場所に貼られた収容先名簿で父親の名前を見つけた従兄弟から聞き、わかったことです。従兄弟は浴衣と水蜜桃を持って宇品から金輪島へ面会にいってくれてとても喜んでいたことを、聞いた私は父親に会いに行くことにしました。祖母と二人で宇品港まで歩いて向かいましたが、まだ戦争は継続されており、艦載機の空襲が激しく危険なため、金輪島の収容者を小屋浦(安芸郡坂町)と玖波町(現在の大竹市)に分けて移送した(8月11日)と聞きましたので、私は父親に会う為に移送された大竹まで電車で向かうことにしました。駅員さんに「客車でも貨物車でも来た汽車に乗っていきなさい」と言われ、待っておりましたら屋根のない貨物車が来たので乗車券もないまま貨物車で大竹に向かいました。8月15日のことです。父親が移送されたという玖波国民学校への道すがら、立ち寄った役場に収容者名簿が置いてあり、見ると父親の名前も載っており、名簿には8月12日午前11時死亡とありました。すでに火葬を終えて、役場の棚に白木の箱(骨壺)に遺骨が納められ、白い布で包んでありました。残念な気持ちのままそれを受け取り、念のために父親が治療を受けた場所の様子を知るために学校まで行きました。学校では大竹海兵団の若い隊員が大勢駐屯しており、ラジオの放送を聞いていました。ラジオの放送を聞きそこなった私は隊員たちに「何かあ ったのですか?」と尋ねたのですが、誰も話してはくれませんでした。彼らは地団駄を踏み、悔しがりわめいておりました。その後、女性職員に大竹駅まで見送ってもらい三滝の親戚の家に戻りました。そこではじめて終戦(敗戦)の放送があったのを知ったのです。

亡くなられた家族との唯一の写真
昭和17年、奥本さん家族が宮島へ旅行に行った際、本堂前で記念に撮られた最後の家族集合写真。
カラー化:庭田杏珠氏

G:お母さんに続いてお父さんまで亡くされたとは。。。
終戦後、奥本さんはどうなされたのかを聞かせてください。
奥本:播磨屋町内だけでも95名の方が亡くなりました。両親と他3名、計5名の方が脱出したのですが、両親も含め、その方々も間もなく亡くなられました。残りの方は建物の倒壊による圧死と火災で亡くなられたのです。
袋町国民学校で行方不明となった子供を嘆き、投身自殺をされたお母さんもおられました。私のふたりの弟(克彦、直道)も同じ学校で行方不明となっています。
妹の文子は土橋の建物疎開の勤労中に被爆し、行方不明となりました。もうひとりの妹の妙子だけ自宅焼け跡の場所で小さな白骨が見つけることが出来ました。
原爆で家族を亡くした私ですが、悲しむ暇はありませんでした。原爆という未曽有の出来事で気がたっていたせいもあり、涙を流す余裕すらありませんでした。
私と祖母は高松市の親族(父親の妹夫婦)を頼り、四国へ向かい、中三から高校卒業までお世話になりました。
高校を卒業して広島に戻り、叔父の紹介で働き、昭和25年の暮れに私は元の場所へなんとか住むことが出来る住居を建てました。翌年に祖母が老衰でなくなり、私は天涯孤独となりましたがやがて結婚しました。私は本通りで父親の金物屋を復活させようと思い、勉強の為に付き合いのあった金物の卸会社へ勤め始めました。10年ほど、セールスマンとして県内を走り回っていたのですが、その10年の間、時代も変わり、本通りも変わっていきました。金物屋では食べていけないと考えた私は、家内の親戚の助言もあり、紳士物のネクタイ専門店(奥本洋品店)を始めることにしたのです。昭和37年のことです。ネクタイをメインに、ネクタイピン、カウスボタン、鰐皮のベルトなどを売っておりました。平成13年に家内を亡くしたことと時代の変化等、様々な事情も重なり、店を閉めることにしました。現在は1階の部分をテナントで貸し出して、2階、3階の住居に住んでおります。私もこの7月11日で93才になりますが、本通りでも一番年寄りになりましたね。最近は腰が悪いので銀山町の整骨院に毎週歩いて通っておりますが、それ自体が運動だと思っております。

G:貴重な体験談を聞かせていただき、ありがとうございます。最後にこの冊子の読者へメッセージをお願いいたします。
奥本:人間同士、争って互いに成長していくのは良い事だと思っていますが、戦い(戦争)で優劣を決めるのは絶対反対です。人類はここまで進歩してきたのだから、戦争はなくしていかければならないと思っております。ロシアのウクライナへの侵攻もそうです。プーチンが原爆をちらつかせておるのもそう、私は両国が戦争をやめることを毎日のように念願しております。
それともうひとつ言いたいのは、私が目撃した紙屋町電停から相生橋にかけて目撃した被爆死した方々の下には市内電車の敷石があり、それは今でも変わらず使われているということを考えてみてほしいんですね。現在は当時の建物も建て替えられてそのままの状態で残っておるのは原爆ドームとこの敷石だけなんです。そのことを知っとる年配の方も今では殆どおりませんが、そういうことも考えて今の広島を見てほしいと思っていますし、平和について考えていただきたいと思っています。
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注1:桃源
本通りの老舗古美術店。貴重な骨董、美術品と共にボディピアスの店としても知られている。当時は平田屋町と呼ばれた場所で喫茶店として営業されていた。戦後、現在の古美術店として店主の両親により買い取られ、屋号をそのまま引き継いだ。
店主の進さんは赤松薬局の社長とは同じ小学校に通 っていた友達であり、後出のマルタカ前で子供時代によく遊んでいたと聞いている。
注2:帝国銀行広島支店
1925年(大正14年)に三井銀行広島支店として竣工され、1943年に合併して帝国銀行広島支店となる。終戦後も銀行として営業を続けていたが、1967年にタカキベーカリーが買取り、デンマークにアイデンティティを求めたベーカリーとレストランの複合店「アンデルセン」を開店、日本で初めてパンのセルフサービス方式を導入したことでも知られている。 2018年7月中旬からの改装工事では、被爆部分を残しながら全面改修し、時代にあったスタイルに再生する形で2020年8月にリニューアルオープンした。
注3:マルタカ(マルタカ子供百貨店)
昭和6年に本通りで創業された老舗玩具店。2014年2月11日、惜しまれながら80年の歴史に幕を閉じた。筆者も学生時代によく通っていた。(当時の名称はFAN-FAN)閉店後、HMV広島本通店を経て、現在はゲームセンター「タイトーステーション」として多くの人に親しまれている。
注4:ニュース館
本通りから革屋町電停(現本通り電停)を挟んだ商店街の西側、現在のサンモールの位置にあり、戦時中は、所謂大本営発表による勝利のニュースを中心に流していた。
注5:福屋
広島市中区に本社を置く百貨店である。広島市の地域一番店である八丁堀本店や広島駅前店など、同市を地盤として事業展開している。1929年(昭和4年)、広島県で初の百貨店として創業した。店内で毎時00分に流れる福屋テーマソングは「ララ福屋」である(歌:森山良子、作詞 かしむら佐夜子、作曲 高井達雄)。1969年(昭和44年)10月1日に創業40周年記念としてこの曲が作られた。(wikipediaより抜粋)
開業当時、モダンな制服に身を包んだエレベーターガールや、化粧品売場のマネキンガールは、若い女性の憧れの的となり、広島初となる本館3階角の電光ニュースは、道ゆく人の足を止め、人気を博した。(ホームページより抜粋)
現在の本通と金座街を結ぶ堀川町(現在のパルコ広島)には、食料品と日用雑貨を主に扱う「福屋十銭ストア」が開設されていた。現在のスーパーマーケ ットやコンビニエンスストアの先駆けと想像している。
注6:王泊ダム(おうどまりダム)
1935年(昭和10年)に完成。広島県山県郡安芸太田町榎平山地先と同北広島町細見地先に跨る、一級河川・太田川水系滝山川最上流部に建設されたダム。(wikipediaより抜粋)
注7:大正橋
広島市道比治山蟹屋線筋の橋であり、道路幅員11m。橋名のとおり、大正時代からある橋であり、その後数度に渡り架け替えを行っている。(wikipediaより抜粋)
注8:常盤橋(ときわばし)
JR広島駅から市内中心部へ向かうときに渡る橋の1つ。
城北通り筋(広島県道37号広島三次線および広島県道84号東海田広島線)にかかる橋。西詰は市内中心部の白島にあたり、最寄に広島電鉄白島線の白島停留場がある。正式表記は「常盤橋」であるが、原爆戦災誌などの被爆資料や橋銘板では旧橋名の「常葉橋」が用いられているため、現在でも常葉橋のほうも多く使われている。また、市の資料などでは「常磐橋」も使われている。(wikipediaより抜粋)
注9:赤松薬局
元和元年(1615年)創業者・金川屋九郎右衛門が、広島市本通に赤松薬局の前身となる「金川屋」を開業。以来400有余年の歴史を持つ広島の老舗薬局。現在の社長と、奥本さんを紹介していただいた桃源の進さんとは子供時代からの友達。
注10:泉邸(せんてい)(縮景園)
造園時は「泉水屋敷」で明治から戦中までは「泉邸(せんてい)」と呼ばれた。
爆心地から約1.35キロメートルの位置にある国の名勝、日本の歴史公園100選。施設は県が管理する。元和6年(1620年)、広島藩浅野氏初代藩主である浅野長晟が命じて作らせた藩主の別邸(大名庭園)が起源であり、歴代浅野氏から寵愛を受け現在まで拡幅し、1940年(昭和15年)浅野氏が広島県に寄贈し現在に至る。(wikipediaより抜粋)
被爆直後、数多くの被災者がここに避難してきたことでも知られ、治療もほとんど受けることができないまま息絶えた被災者の遺体は園内に埋葬された。現在、「泉水」の名称は縮景園内にある売店「泉水亭」として受け継がれている。現在の広島県立美術館もかつては縮景園の園内であ った。東側に隣接する幟町中学校は折り鶴の佐々木禎子さんの出身校としても知られている。余談だが筆者も卒業生の一人だ。

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