無限なものが2 つだけある。宇宙と人間の愚かさ。宇宙について確信はないけど。 – yukaly(木村ゆかり)

2022年2月24日ウクライナ侵攻戦車? ヨーロッパ? まさかとはこのことだ。
ウクライナ国境付近でロシアによる示威行動があり侵攻の可能性が言われていたけど。ウクライナで会ったほとんどのウクライナ人も、侵攻当日まで戦争が始まるとは思っていなかったと話していた。
侵攻から2カ月後の2022年4月24日、感染拡大防止の規制や制限続きの閉塞感と戦争という違和感から、入国制限解除になりつつあったヨーロッパに勢いだけで飛び出し、何のツテもアテもないままウクライナへ陸路入国した。

写真 : 爆撃で破壊されたブチャやイルピンの集合住宅、住居

そして再度、2022年12月から年始にかけてウクライナに渡った。
ライフライン攻撃により冬の厳しい寒さの中で暮らす人たちと再会し年末年始を一緒に過ごしたい、戦争で破壊された家屋の修繕チームへの支援の継続、そしてバンクシーの絵を探しに。
初めてウクライナを旅したのは2015年。原発事故(1986年)によりいまだ立ち入り禁止が続くチョルノービリ(チェルノブイリはロシア語)に、鋼鉄製新シェルターで覆われて事故を起こした4号炉が見えなくなる前に、と。この時ウクライナはロシアからガス供給が止められていたが、ユーロマイダン(2013~2014年。親露派ヤヌコヴィチ政権に反対しEU加盟を求める民主化革命。大統領が失脚しロシアへ亡命)の熱気冷めやらぬ高揚した雰囲気があった。
当時現地で体験した出来事が、今回の侵攻ともつながり、私がこうしてウクライナに通う小さなピ
ースになっているのかもしれない。さて、戦時下のウクライナや周辺国で出会った人たちの人生に起こったことや彼らのメッセージの一部をここに書こう。
自国が戦下であっても、日常を生きる人たちのことを。


●K(侵攻後キーウ(ウクライナ)からリガ(ラトビア)に避難)侵攻の半年前にキーウに移り住みました。普段なら早朝から出歩く人はほとんどいないのに、その日はリュックを背負った人を何人も見かけました。職場に着くと「仕事はないから帰れ」と言われました。
ロシアによる侵攻が始まったと知り、どうしようか迷っていたところに職場の上司から「今なら車に乗れるがどうする?ただし荷物は1つ」との電話に「乗る」と答え、急いで2日程度の着替えと猫と猫の餌をまとめて車に乗り込みました。
いつも30分程度の道に30時間かかるなど、多くの人がキーウから脱出しようとしていました。ポーランド国境に近い西部の街・リビウからポーランドへ出て、ウクライナの南部に接するモルドバ共和国からルーマニア…バスを何十時間、何日も乗り、ようやくラトビアにたどり着きました。
リガで仕事をしながら生活していますが、荷物はもちろん借りていたアパートも契約したままにしています。またあの家に帰るぞという気持ちが強く、気持ちがウクライナから離れず、遊びや旅行に行く気分にならず、気持ち的にはずっと避難が続いている状況です。
戦争は政治的な背景などとは別に、私たちの生活に直接関わっていて、目の前で常に自身の生活そのものに問題が起こっています。政治的な思考でどの国が悪いから、そいつらのせいだから関係ない、と思ってほしくないです。現実的に目の前の水や食べ物や生きるために必要なものが奪われているので、1人の人間としてそこにいる人に目を向けてほしいなと思います。


●アルテム(侵攻前にウクライナ東部ハルキウからリビウに移住)
戦争が始まる以前、報道されていたロシアの動きから何かが起こると強く感じ、ロシアから一番離れたポーランドに近い西部のリビウにハルキウから彼女と引っ越しました。

写真 : 爆撃で破壊されたブチャやイルピンの集合住宅、住居

戦争が始まる1カ月前のことです。
戦争前みんなが当たり前に通っていたハルキウから40キロ離れたその街から、戦争になった途端ミサイルが連日飛んできました。もしハルキウで毎日目の前で人が死んだり傷つくのを見ていたのなら、ロシアへの憎しみはリビウにいる今以上に強くなっていたと思います。
戦争直後はいつ召集されるかと少し不安でしたが、今でも彼女やおばあちゃんは心配しています。
ウクライナではユーロマイダン(2013年にウクライナで起きた市民運動)があり、たくさんの市民
や学生が亡くなりました。その彼らは「天国の100人」と言われています。
そしてロシアによるクリミア半島併合、東部ドンバス地方(ドネツク州とルガンス州の両州を合わせ
た地域)でのウクライナ東部紛争があり、今回のロシアとの戦いがあると思っています。
ロシアに負けないために、戦うために、武器は必要です。
ウクライナを支持してくれる国が武器を送ってくれないと負けてしまいますが、日本が歴史的に他
国に武器を渡せないのはわかっています。
多くの日本人がウクライナを支持してくれていることはとてもうれしいです。
戦争で変わることもあるけど、変わらないこともあると思います。戦争があってもなくても、半分の人は変わると思います、若い世代は特に。その変化が社会を変えていくと思います。

写真 : 放置された廃戦車


日本の2つの都市で1945年8月6日と8月9日に起こった悲劇
広島と長崎の犠牲者にお悔やみを申し上げます。


●ニック(キーウ在住)
私はドネツク近郊の小さな町トレツクで生まれました。私の両親はずっとそこで暮らしてきました。
戦争がキーウで始まってもウクライナ軍を信じていたので怖くはなかったので、私は人々の助けをしようと心に決めしました。まず両親を避難させ、それから他の人たちを助けることにしました。
地元の防空壕から活動を始め、数日のうちにキーウ中の地下鉄に避難している人たちの世話をするようになりました。事務所を設立し、世界中から人道援助を受け入れました。私は新しいスキルを素早く習得し、数日間で物流と倉庫管理を学びました。
ウクライナが首都キーウの北部地域を取り戻したとき、新たな問題に直面しました。キーウ近郊で激戦のあったブチャやイルピンでは何千もの家が被害を受けていました。そんな時にユカリと出会いました。
日本のみなさまからの寄付により、これまでに160棟の建物を修繕し、できる限りのことを続けています。戦争はまだ終わっていないけど、みなさまの支援に感謝したいと思います。
これからも私たちは家の修復を続け、他に行くところがなく今も最前線地域で立ち往生している多くの難民のために避難所を建設したいと考えています。

写真 : この戦いで亡くなられた兵士たち

2022年6月。私は帰国してから、友人らの厚意と協力で、この旅で見聞きしたウクライナのことをネットテレビ、ラジオ、ライブやイベント、冊子など様々なところで話す機会をいただきました。
話を聞いて心を寄せてくれたたくさんの方や友人そしてアーチストからいただいた3,774,284円は家屋修繕費用としてウクライナに送金しました。
この場を借りて心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。ニックが言うように戦争は終わらず、まだまだ家屋修繕は続き、戦争の前線地域から避難出来る場所作りも計画しています。
引き続きお力添えいただけるとうれしいです。
三菱UFJ銀行 六本木支店(店番045)
普通口座 0148335
ツナゲルツタエルプロジェクト キムラユカリ

写真 : 街中のアート

2022年2月24日ウクライナ侵攻
人口約4000万人のウクライナでは、国外避難者800万人以上(うちロシアへの避難は強制移住もあると言われているが280万人以上)、18歳から60歳までの男性は原則出国禁止のため国外避難のほとんどは子供と女性と高齢者。国内避難も500万人を超えている。ウクライナで死亡が確認された民間人9177人、負傷者1万5993人(2023年6月末)。ただし戦闘が激しい地域の把握は困難で実際の死傷者数ははるかに多い(UNHCR国連難民高等弁務官事務所)。
兵士の死者はウクライナ1万~1万3000人(ウクライナポドリャク大統領府顧問 2022年12月)、ロシア5937人(ロシアショイグ国防相 2022年9月)。私もあなたも、国や民族や歴史や政治や思想では括られない、それぞれがさまざまな個性を持った個人です。理不尽に生命が脅かされ奪われ翻弄され飲み込まれる戦争に、一人ひとりの存在と生命がアートでユーモアでささやかな抵抗。
最後に、侵攻で故郷ハルキウから家族で避難していたキーウで知り合ったサシャの言葉を。
“日本は毎年のように自然災害があるけど、ウクライナはロシアという災害ずっと見舞われてきた
。俺の人生は、ソビエト連邦、マイダン革命、今回の戦争…災害の連続だ。それでも人生は美しい、本当にそう思っている。ウクライナ人もロシア人も、若い世代は俺たちの世代とは全然違う。それは希望だよ。”

写真 : 2022年末、黒海に面する南部オデーサのクリスマスの様子

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