中立という立場は重要か? – Yamazaki Helvete(AXE HELVETTE)

日々、日本の近現代史に触れる度、日本に於ける自称中道、あるいは中立であろうとする人々の思考や言論は非常にファシズム的なものであるという事に気付かされる。
若い頃、特に日本の近現代史に興味も知識も無く今思えばある時期から”日本会議的”とも言える思想の家庭で育った俺はその思想が宗教的信心のようなものにしか思えず全く響かなかったが、ただ報道で目にするファシズム的、権威主義的、あるいはそれらに反対する言論もどっちもどっちだろうと特に深堀りする訳でもなく、
ただ何となく自分は中立でありたいと思うだけで日々を過ごしていたように思う。
前記の”日本会議的”な思想の内容を要約すると、”日本は天照大神から連綿と続く万世一系の天皇家という神の子孫を戴く世界にも例を見ないありがたい国である”という、歴史と神話をミックスし明治政府によって創作流布された国体論(天皇崇拝)をベースに、”戦後に押しつけられた憲法や民主主義が日本の伝統的価値観を壊し人々をわがままにし、精神を荒廃させたから本来の日本に立ち返るべきだ”という、新自由主義政策による市場経済の競争を内面化した過度な資本主義信仰、
そしてこれまた明治時代の国策から社会通念化し、手を変え品を変え根強く残る通俗道徳(自己責任論)の蔓延から生じたであろう自他へ人権意識の欠如が及ぼした公助による格差是正や弱者救済への蔑視/特権視から、救済されるべき人々を斬り捨てる政策を支持する世論等の問題点を無視した上で、その打開策としてこれまた明治政府によって成された”国家神道(前述した国体論=天皇崇拝を非宗教化し当時の臣民の当然の前提条件として促した)の復活によって、日本の伝統的価値観を取り戻せば国家と人々は一体化し、より良い世の中になる”という、公権力と市民/個人、マジョリティとマイノリティ等の間に存在する権力の非対称性/不均衡性から生じる権威勾配を考慮せず、権力と一体化した市民/個人を目指すド直球の宗教ナショナリズム/天皇制ファシズムの戦前回帰で呆れる。

留意したい点としてここでの伝統という言葉には戦後の時代は入っておらず、極めて限定的な戦前の時代を指しており、大日本帝国時代の侵略戦争への反省から得られたであろうはずの教訓が完全に欠如した伝統であり、天皇免責の為に日米の限られた権力者間で結託して行われた東京裁判を無視した天皇の英雄視や、戦前から現代まで続く権力者層の縁故主義で閨閥と化した泥棒政治への無批判や、未だ超克されていないアジア蔑視等、前述した問題点も合わせて挙げればキリが無いが、一人一人の人間を大切にする手段として個人の尊重を是とするはずの本来の民主主義を敗戦で押しつけられた舶来の思想として否定し、近現代史の通説を無視した天皇制ファシズムを”独自の伝統”としたいのだろうと思う。

そして前述した通俗道徳というものは非常に厄介な存在で端的に言えば”個人の努力によって夢は叶う”というもので一見否定し難いのだがこれが教条化/社会通念化された社会ではどのような境遇に置かれていたかという背景も伺い知れない個人に対しても”結果が伴わなかった人は努力が足りなかった”となり、個人の境遇/社会的背景、そして法の不備や政策的失敗をも存在しなかったものとして扱われ、個人の自己責任に全てを転嫁させる事で社会問題/政治的問題に対しては無批判となる。そしてその自責の念は連鎖し、批判の矛先は他罰として社会的弱者に向かう。
これが一家庭の個人の思想信条の問題ならなんて事無いのだろうが、ある日、政権与党と日本会議の癒着がクローズアップされた記事を読んだ時、一家庭の個人の思想信条と日本会議が目指すものがあまりにも一致していて驚いた。そしてその戦前回帰路線は改正教育基本法に於いて具現化される。
旧教育基本法の前文からは”平和を希求する人間の育成”、”個性ゆたかな文化の創造をめざす教育”を削除、”公共の精神を尊び”、”伝統を継承”を盛り込み、本文には”伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する~態度を養うこと。”を盛り込んだ事からも方向性は一致している。
そして”個人”という文言を全て削除し天賦人権を否定し、国家主権の国を目指す自民党憲法改正草案も全く同じ方向性だ。
これには抗うしかない。しかし多くの人々は労働に8時間、通勤帰宅に1~2時間を割かれ、労働を終えた後にそれぞれの家事や趣味やエンターテイメントを消費するのだろうし、疲れた状態で政治的な事に目を向ける層は限られた人々なのではないかと推測する。

テレビの政治的報道の多くは権力監視の機能を果たしておらず、エンターテイメントとして再生回数を金銭化するYoutube等で政治系動画でオススメされるのは、
全く近現代史の通説を踏まえず原典不明のおかしな歴史観で展開され、市民生活に直結する事柄よりも諸外国への対外的な強硬路線を主張する物や陰謀論や”日本凄い系”、また、露悪趣味や社会的弱者やマイノリティへの差別を煽り、結果的に反共/反リベラル/反左翼/反人権/自己責任論の言論で、これらもやはり権力監視の機能を果たしておらず、戦時の特高警察と同一線上にある社会運動監視や隣組制度のような市民による相互監視に近い権力への無批判と同時に市民監視という色合いが強く、現政権で行われている強硬な法改正や社会問題の存在を忘れさせ、あるいは肯定/容認させる政権側の政治運動としての方向性を持った所謂”ビジネス右翼”で溢れかえっており、それを原典としてSNSで言論を展開する”右でも左でもない普通の日本人”を自称する人々がネットで拡散し、多くの人々の支持を集め世論を形成している。
変動する世論や政治運動の範疇でバランスを取り中立であろうとしていたかつての俺も間違っていた。
一人一人の人間を大切にする手段として個人の尊重を是とするはずの民主主義は形骸化し、外形的に選挙制があるだけで、議会に求められる熟議も無く多数決や強行採決や閣議決定等で憲法や国際条約の理念にも沿わない議決が強権的、集計的に続々と進められ、政府やそれに連なる限られた権力者層やその周縁の企業の縁故主義は巧妙に保たれたまま名ばかりの”既得権益の打破”で更なる競争を強いられるのは権力とは程遠い市民だ。
そんな権力構造を有難く戴く”右でも左でもない普通の日本人”を自称する人々は蔓延する自己責任論や権力への忖度を内面化しており、縁故主義で閨閥と化した泥棒政治への無答責を許容/英雄視する。
権力は人々が持つ自己保身や利己主義や差別心といった劣情に取り入って本来は敵対する必要のない市民同士を戦わせ巧みに権力監視をかわし体制維持/強化を謀る。しかし”右でも左でもない普通の日本人”を自称する人々はそんな体制側の意図に沿ってしまい一般市民の天賦人権や格差是正をも敵視する。
しかしそれは体制側の縁故主義や血統主義の”縁”に入れない自分自身を含めた一般市民の人権/抵抗権すらも自ら放棄する結果をもたらし、一人一人の人間を大切にする手段として個人の尊重を是とするはずの本来の民主主義が目指す所と相反するファシズムに加担する物でしかない。


一人一人の個性を持った個人の尊重を重んじるからこそ市民は権力の暴走やそれを支え人々を誘引する組織を監視し抗う必要があるのであって、権力の暴走によって引き起こされる様々な人権侵害や人権蹂躙、またその同一線上にあり手足のように世界の市民を動員し殺傷する戦争や既存の権力構造の維持/強化でしかないものを国防という言葉に摩り替えて世界の市民/個人の命を奪う権限を誇示し恫喝する核兵器に反対するのは当たり前の事だ。
変動する世論や政治運動の範疇でバランスを取ったつもりで沈黙し、何も言わず何もしない自分を正当化する言い訳としての中立の態度は世界の寡頭制の権力の維持/強化を容認しそれらに与し同調するのと同じだ。
人はそれぞれ違ってそれで良く、そして皆平等に尊重され誰もが生きやすい世界を!

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