パンクと核兵器 – 川上幸之介

『リアリティーズ・オブ・ウォー』ディスチャージ、1980 年 表面。
『リアリティーズ・オブ・ウォー』ディスチャージ、1980 年 裏面。

1980 年、イギリスのミッドランド西部の町、ストーク・オン・トレントで、ハードコア・パンクバンド、ディスチャージがEP『リアリティーズ・オブ・ウォー』をリリースした。このデビューEPは「音楽ではなく騒音(Noise, Not Music)」としての特徴的なビートをバックに、ファズ・エフェクトを効かせたギターと、生々しい戦争の現実について叫ばれた4曲が収録された。黙示録的な雰囲気を醸す、このEP のスリーブの表面には、スタッズで覆われた黒いレザージャケットとバンド名が記載されている。裏面は、曲名とメンバーの名前がそれぞれタイプされ、中央にはライブ写真が配置された。端には、このレコードがわずか3 時間で録音されたこと、「ノー・ファッカー」に感謝の意(誰にも世話になってない、つまり、DIY でやったことを強調)を表し、アナーキーのシンボルも書き入れている。BBC One の名物ラジオDJ、ジョン・ピールがこのEP をラジオで流すと、インディーチャートで5 位まで上りつめ、44 週間にわたってチャート入りした。パンクの歴史に詳しいイアン・グラスパーは、「これまでに作られた中で最も強力な反戦レコードの一つ」とこのEP を評している。
ディスチャージは『リアリティーズ・オブ・ウォー』によってブリティッシュ・パンクの一つの分岐点を形成した。それは、セックス・ピストルズやクラッシュが不遜な態度で、反権威、社会的排除、個人の自律を叫んだのに対し、戦争と核の脅威、そして政治に批判対象を向けた最初のバンドの一つだったからである。彼らは視覚的にもそのイデオロギーを明快に打ち出した。

ジュネーブ精神』ジョン・ハートフィールド、1932年。
『 ネヴァー・アゲイン』ディスチャージ、1981年。


 スリーブに使われたのは、爆弾が落ち、子供たちが死んでいく様子のモノクロ写真や、ベトナム戦争でのソンミ村虐殺事件の写真。さらに虐殺に関与した兵士のインタビューのやり取り「質問:子供も(殺したのか)?答え: 子供もだ。」も添えられた。1981 年のEP『ネヴァー・アゲイン』では、モンタージュを用いて「政治の美学化」を唱えたナチスに対し、「美学の政治化」で応えたベルリン・ダダのアーティストの一人、ジョン・ハートフィールドの作品『ジュネーブ精神(1932)』が使われた。初アルバムの『ヒア・ナッシング・シー・ナッシング・セイ・ナッシング』では、レッド・ドラゴン・プリント・コレクティブによる刑務所管理に対するポスターイメージが転用されている。また、『リアリティーズ・オブ・ウォー』に続き「ゼイ・デクレア・イット」「ウォーズ・ノー・フェアテイル」「ヴィジョン・オブ・ウォー」「メンド・アンド・スロッタード」「マスカー・オブ・イノセンス」「ザ・ファイナル・ブラッドバス」「トゥー・モンストラス・ニュークリアー・ストックパイルズ」といった反戦、反核を訴えた曲を矢継ぎ早にリリースしてきた。最近でも、2016 年にリリースしたニューアルバム『エンド・オブ・デイズ』の同名の曲のイントロでは、核が落とされる直前について説明する、乾いた声のナレーションが引用され、核の脅威が強調されている。


『ヒア・ナッシング・シー・ナッシング・セイ・ナッシング』ディスチャージ、1983 年。このUK ハードコアに新しい風を吹き込んだ彼らは、パンクだけでなくメタルといった他のジャンルにも多大な影響を与えた。さらに、クラストパンク、グラインドコアのルーツの一つともいわれ、日本のパンクバンド、ディスクローズや北欧のパンクスたちによって知られるようになる、ドラムビートにちなんだ「D-beat」というパンクのサブジャンルも生みだした。


イギリスの核軍縮キャンペーン(CND)

ディスチャージが結成された当時のイギリスを振り返ると、保守党党首のマーガレット・サッチャーが登場した時期と重なっている。サッチャー政権の政治志向は軍国主義的であり、善か悪かといった二元論的なレトリックで、ソ連、共産主義への敵対的な態度を示していた。1983 年、ディスチャージは死神をバックに斧を片手にもつサッチャーを描いたEP『ワーニング:ハー・マジェスティズ・ガヴァメント・キャン・シリアスリー・ダメージ・ユア・ヘルス(警告:女王陛下の政府はあなたの健康に深刻なダメージを与える可能性がある』をリリースし、プロパガンダと嘘にまみれた政府の欺瞞を、いち早く警告した。さらに、アメリカの核兵器がイギリスを含むヨーロッパに配備されることに国民は恐怖と怒りを感じていた。

『ザ・フィーディング・オブ・ザ・5000』クラス、1979 年。


この不満の高まりによって大規模なデモが起き、それまで、反ベトナム戦争運動の陰に隠れていた核軍縮キャンペーン(以下CND) が再び注目を集めるようになる。
 CND は、広島と長崎に落とされた核爆弾による大惨事を契機としてイギリスで生まれた運動である。戦後も続いた核兵器の開発競争、核実験がもたらした健康被害、環境破壊に対する懸念によって、1958 年ロンドンで大規模な市民集会が開かれたことで発足した。


第1 回の抗議活動では、誰もが目にしたことのあるピースマークで知られるシンボルとともに大きな注目を集めた。1980 年代初頭の冷戦時代に現れたサッチャー政権とアメリカのレーガン政権という保守政党の登場は、効率化と合理化を推し進め、大企業の利益を優先したため格差を拡大させた。さらに、マイノリティを排除、抑圧し、戦争の脅威を煽り、人々に対して自己責任を内面化させた。その結果としてCND やカウンターカルチャーは再び注目を集めることとなる。60 年代後
半のカウンターカルチャーにルーツを持つメンバーで構成されたパンクバンド、クラスは、セックス・ピストルズが拒絶した「ヒッピー」を名乗り、CND のピース・マークを取り入れ、活動当初から
支持を明確にしていた。デビューEP『ザ・フィーディング・オブ・ザ・5000』(1978 年)では、「ゼイブ・ゴット・ボム」で反戦を訴えた。この当時、クラスやディスチャージのみならず、多くのパンクバンドが戦争と核の脅威を表現していた。

『トゥループス・オブ・トゥモロー』エクスプロイテッド、1982 年。

冷戦とパンク

1979 年、キリング・ジョークがデビューEP『ターン・トゥ・レッド』で最終戦争を予言した。ディスチャージと共に「アポカリプス・ナウ」ツアーに参加したエクスプロイテッドは、1982 年のアルバム『トゥループス・オブ・トゥモロー』のスリーブで、戦争によって荒涼とした街を描いている。
メンバーは鎖や棍棒で武装した骸骨のミュータントたちに囲まれている。UK サブスは「ウォーヘッド」で西洋を舞台にアメリカとロシアの間に立つイギリスに戦争の覚悟を呼びかけ、現実に目を向けさせた。カオス UK、ディスオーダー、アメビックスは、反戦を叫びつつ、暗黒、荒廃といった戦
争のムードを深め、クラストといった退廃的なイメージへと展開していった。
このバンドたちが用いたピースマーク、アナーキーのシンボル、キノコ雲、爆弾、軍用品のイメージの使用は、多くの若手パンクスにも影響を与え、彼らのレコードスリーブ、ファンジン、ポスター、フライヤー、レザージャケットにも転用された。パンクはこのように音楽だけでなく、さまざまなシンボルやイメージが組み合わさることで、独自のスタイルを生み出し続け、それが相乗的にイデオロギーや、反戦意識を人々の間に広めていった。

『ナガサキ・ナイトメア』クラス、1980 年

この時代の切迫した核戦争への脅威は、国家権力だけでなく、国家に加担するシステムやイデオロギー、制度に対する幅広い批判にもつながっていく。中でも政治的なレトリックだけでなく、反軍国主義や平和活動と強く結びついたのが、クラスを草分けとしたアナーコパンクスであった。彼らは曲だけでなく、(ファン)ジン、インディペンデント・レコード・レーベル、各種市民団体、不法占拠運動など広範なネットワークを構築した。そしてクラス、コンフリクト、フラックス・オブ・ピンク・インディアン、サブヒューマンはパンクを通じて人々に抗議活動を扇動し、CND やグリーナムコモン女性平和キャンプを支援した。

 かれらのレコードのスリーブは反戦、反核のイメージだけでなく、時に、そのデータや情報の詳細な資料として機能した。例えば、クラスのEP『ナガサキ・ナイトメア』(1980 年)は、イギリスの核関連施設の地図と水爆の歴史的なエッセイを含む折り畳み式スリーブが付属し、フラックス・オブ・ピンク・インディアンのアルバム『ストライヴ・トゥー・サーヴァイブ・コージング・リースト・サファリング・ポッシブル』には、政府の核シェルターの位置が記載されていた。クラスはその後、サッチャーとレーガンのやり取りをでっちあげたテープを作成し、一大スキャンダルを巻き起こした。
このアナーコパンクに魅了された人々の多くは、レコードを購入し、ライブに参加する以上に、平和主義、フェミニズム、階級闘争、動物の権利活動と、幅広いラディカルな政治意識を高めていった。
 アナーコパンクと根幹を共有しているディスチャージは、広範な政治的活動には踏み込まなかったが、戦争の恐怖を詳述し、「システム」に対して率直な言葉で批判し、多くのフォロワーと共感を生んだ。

 パンクは若者のフラストレーションや自主性を歌ったものからはじまったが、サッチャー政権時代には警察の抑圧や暴力、失業、核戦争に対する逼迫した脅威が叫ばれた。さらにはアナーコパンクといった平和活動を並行させるバンドもそれに続いた。パンクは時代の影を反映させつつ、抑圧的な力に抵抗したことで、社会運動にコミットするための新たな手段にもなったのである。この戦
争の恐怖から立ち上がったパンクスたちの闘争は、音楽という文化がもたらす幅広い層と国を跨いだ繋がりによって、反戦に対する結束と協力を強化した。この抵抗の網の目は、現在にまで続く平和を促進させる役割を果たすと共に、社会から疎外された人々をも受け止めており、本書も、その重要な一翼を担っている。

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