私の母は昭和20年のあの日両親と妹3人の6人家族で十日市に住んでいました。当時16歳です。両親は日本茶葉の販売店舗を経営していました。
空襲が激しくなり広島も危ないと家族皆で親戚のある田舎に疎開することになり引っ越しの準備を進め、最後に自宅で家族写真を撮ろうと写真館の方に来ていただき自宅で家族写真を撮りました。父が「みんな元気で帰ってこようね」と写したその日は8月5日であったように思う、と母は語っていました。
翌6日の朝、母とすぐ下の12歳の妹は動員先にでかけました。

戦後の再建の様子 自宅兼店舗前にて

母は西観音町の食糧工場に、妹は建物疎開作業で今の平和公園噴水あたりに出かけ、6歳と3歳の妹と両親は自宅に。
母は工場に着き作業開始前に友人たちと話をしていたその時原子爆弾が炸裂、工場は爆風で潰されましたがなんとか這い出し逃げ出しました。
ですが自宅のある方面から沢山の人が逃げ惑うのを見て家には帰れない、と察し何かあればここに集まろうと決めていた井口の家に向います。やっとの思いでたどり着いたものの待っても待っても家族は誰ひとり来ることはありませんでした。
その後家があった辺りに行くとタイル作りの台所の一部が焼け残っていたことで自宅の場所とわかりガレキを探ってみました。
真っ黒に焼け焦げた父親と三女が見つかり、母と末の妹は抱き合ったままで亡くなっていました。その瞬間、我が子をぎゅっと強く抱きしめたのでしょう。二人の胸が強く合わさった部分の服がわずかに焼け残っていました。母はその母と妹の2枚の洋服の切れ端を握りしめ泣き崩れたそうです。
建物疎開に出ていた妹は朝玄関前で別れたっきり何も見つかりませんでした。
当時妹を探しに行く気力も失せ探しに行く事をしなかったままでいたことに
「あの時妹を探しに行かなくて可哀そうなことをした、もしかしたらまだ息があって誰かが来るのを待っていたかもしれない・・・」
と、時折言っていました。

最後となった家族写真
向かって右が岩田美穂さんの母、綿岡千津子さん


その後母は疎開先であった湯来町の親戚宅でお世話になります。戦後暫くして偶然バッタリとあの家族写真を撮ってくれた写真館のおじさんに出会います。
「写真は焼けないで残っているよ」と言われ後日届けられました。
あの日別れた家族に出会えたのは最後の家族写真でした。写真はずっと家に飾られ「誰も見ることが出来なかった、」と独り言のようにつぶやいていました。
母はほとんど原爆の話をする事はありませんでした。出かける時は平和公園を通らず遠回りしていました。
ある日私たち家族や親族らと記念写真を撮りに写真館に行った時、待合室で突然「恐ろしい、恐ろしい、」と言って動けなくなりました。母はとても明るくてお茶目な人だったのでその姿を見て私はとても衝撃を受けました。
写真を撮るとまた一人になってしまうのではないか、そんな思いが襲ったのでしょう。それまでも母は写真を撮ることをあまり好みませんでしたがこのことがあってからは写真を撮ろう、と誘うことはもう止めました。
母の両親が開いた店は戦後に結婚した父とともに同じ場所に再建しました。父が病に倒れ早世すると母は一人店を守り、今は私が継いでいます。そして私はこの母の体験を私や息子たちの母校である広島市立本川小学校にある本川平和資料館でボランティアガイドとして語っています。

この資料館は被爆校舎の一部を保存し平成元年に開館されました。それまでこの校舎は修復に修復を重ねながらずっとこの学校の校舎として使い続けた建物です。
「はだしのゲン」の中沢啓治さんも私も学んだ校舎です。漫画では「元川小学校」として被爆後のL字型の校舎が描かれています。
卒業生として中沢さんは本川小学校の子供たちに何度かお話に来られ、私は直接お話を伺った事もあります。
開館当時はPTAが主にガイドを担っていました。私が活動を始めたのはPTA時代に声を掛けられたのがきっかけです。
ですが大した知識もなく、質問されても上手く答えることが出来ず情けない思いから自分なりに原爆や戦争についても勉強しました。私はガイドする中で中沢さんからお聞きした被爆体験、戦後の本川学区の悲惨な状況なども出来る限りお話しています。そうして活動していく中、母の話は絵本「いわたくんちのおばあちゃん」となり教科書にも掲載されるようになりました。著者の天野夏美さんは同じガイド仲間のママ友です。ここ数年、広島市内や近郊の小中学校、そして大人の企業研修として招かれお話しています。若い先生から「平和学習で子どもたちに何をどのように話せばいいのか」と相談されることが少なくありません。子どもたちにとっては78年前も300年前も同じ大昔です。戦争を語る時、こどもたちには解らない言葉があります。「ウジ虫がわく」「ハエがたかる」「リヤカー」「むしろ」「ポンプ」等々。最近は「水洗トイレ」も「どんなトイレですか?」と質問されました。その位戦後が長いのです。先生もすでに3世、県外出身の方もおられます。若い人の中には日本がどこの国と戦争したのかさえ知らない人もいます。スマホを誰もが持ち、何でも手に入る豊かな時代に生まれ育った子供たちへ、さらに次の世代へ継承という時代に入っています。亡くなられた坪井直さんも言われているように核兵器廃絶はもちろん大事ですがそれだけを追いかけるだけではなく私たちひとりひとりが真摯に戦争や平和について学び考えることがとても大切と思います。そして福島原発事故は収束しておらず、今もなお多くの人たちが被ばくによる困難な状況にさらされ、それによって深い心の傷を負っている、ということも忘れてはならないと思います。福島も「被ばく地」であり今現在も被ばくは続いています。子どもたちに「岩田さんは平和って何だと思いますか?」と聞かれます。「今平和だと思うよ。水道の蛇口から水が出てくるね。その水は飲むことが出来るね。それは平和だからだよ。」と答えます。ある幼稚園で「こんな小さな子供にどう平和を教えればいいのですか?」との問いにベテラン先生は「きれいな花を見て、きれいだなあ、と感じる心を育てることですよ。」と言われたそうです。平和を学ぶには戦争だけを切り取って教えることだけではないと思います。
「戦争はきれいごとではない」もちろんそうです。私も以前はそう思っていました。
どうすれば戦争がなくなるのか、平和とは何か、ずっと考えていました。でも大切なのはそこではなく人としての心の在り方ではないか、と思うようになりました。
いくら優しさや思いやりの心があっても不条理で悲惨な戦争は起きてしまいます。
それでも、まずは身近な小さな当たり前に感謝と、そして優しさを、ここからが最初の一歩であると私はいつも感じます。
戦争は当たり前の日常を一瞬で奪う、これからも亡き母の体験を通し、伝えていきたいと思います。

岩田美穂さんの母、千津子さんの被曝体験と美穂さんの証言活動を基に作られた絵本 
「いわたくんちのおばあちゃん」
天野なつみ / 作 はまのゆか / 絵